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岩船大祭の由来と見どころ

記事ID:0034661 更新日:2018年4月1日更新 印刷ページ表示

お船様はなぜ山に登るのでしょうか

神社本殿へ向かう「お船様」

「げにやめでたき神代の昔 蜻蛉洲(あきつしま)に宮始まりて…」(本当にめでたい 神様がおられた昔 日本の国にお宮様が始まって)と木遣りの声が石船(いわふね)神社の杜(もり)にしみ通って流れます。

10月19日、夜もおそくなったころ、先太鼓を先頭に岸見寺の若い衆にお船様はかつがれ、お宮のある明神山を上っていきます。岩船大祭のクライマックスです。

なぜ、船が山に登るのでしょう。船は本来、海や川に浮かぶものですが、岩船のお船様は山に登ります。このような神事を探してみました。大阪府の磐船神社に同じような神事が昔あったと言われております。この大阪の磐船(いわふね)神社と岩船の石船神社は、磐と石の文字の違いはあっても同じ「いわふね」と読みますから、何らかの関係があったのではないでしょうか。

大阪の磐船神社と石船神社

石舟神社と明神山

その関係について、大阪の磐船神社の神主さんにうかがいました。

磐船神社は、物部(もののべ)氏の神社であったと言われております。物部氏は聖徳太子の時代以前に大きな力をもった大和朝廷の豪族でした。物部氏は大和朝廷内の争いに敗れ全国に散っていきました。その一つがこの岩船の地に来ていたのではないでしょうか。その人たちがふるさとをしのんで物部氏の祖先神を岩船の地に祀っていたのではないでしょうか。

大阪の磐船神社と岩船の石船神社は同じ神様で饒速日命(にぎはやしのみこと)が中心に祀られています。饒速日命はどんなことを司る神様なのでしょうか。饒速日尊は、神話によるとイサナギ・イザナギの命の神様が地上に降りてくる前に地上にやってきた神様でした。岩船の町から神社のある明神山をみると奈良盆地にある天香具山ににているような気がします。

そして、大化4年(648年)に阿倍野比羅夫(あべのひらふ)が率いる強大な軍隊の一部がやってきて砦をつくり、「磐舟柵」(いわふねのき)と呼んだのではないでしょうか。 

石船の地名

「磐船柵趾」石碑日本地図

648年に「磐舟柵」が設けられた場所であることから、「岩船」という地名ができたと思っている人もいるのではないでしょうか。阿倍野比羅夫が岩船の地に来たとき乗ってきた船が今まで岩船の住人が見たこともないくらい大きくてがっちりしていて「岩のような船」と思えたところから、「岩船」という地名になったという説もあります。しかし、そのはるか以前から「岩船」の地名があったため、「磐舟柵」と名付けられたようです。

全国には、他にも「岩船(岩舟)」という地名が残っている場所があります。栃木県岩舟町、島根県安来市岩舟(岩舟古墳)、茨城県常北市岩船、長野県中野市岩船などです。「岩船(磐船)神社」となると、20社くらいにもなります。「いわふね」の文字は違いますが、その名にはどんな由来があるのでしょうか。「いわふね」という名の残っているところには、必ず物部氏や「天磐船(天磐樟船)(あめのいわくすぶね)」にかかわる話が残っています。「岩船」の名前の由来は、日本書紀で饒速日命にかかわる神話に出てくる「天磐船(天磐樟船)」からきているようです。村上市、岩船も、その例外ではありません。

4~5世紀ごろ、物部氏たちが越後の地に来ました。自分たちの故郷である大和を遠く離れた彼らは、この地にも土着して地方の有力部族となっていきました。そして、自分たち物部氏一族が神とする饒速日命をお祀りした神社をつくりました。そのような神社は全国にたくさんあり、物部神社や磐船神社と名付けられました。岩船では、その神社の名前が「岩船」という地名になり、現在まで残っていたのではないかと思われます。

これが本当なら、「岩船」の名付け親は物部氏ということになります。日本史を勉強すれば誰でも知っている物部氏が、こんなところで岩船の地とかかわりがあるなんて驚きですよね。

石船神社のそのいわれ

石船神社本殿と大鳥居

石船神社の神様は、どんな神様なのでしょうか。「石船神社の神様は海の神様で、女の神様だ。」というのを聞いたことがある人がいると思いますが、本当なのでしょうか。

まず、一つめは、饒速日命です。これは、物部氏が軍事的な意義から祀られたものと考えられます。饒速日命は、武神であると言われていますが、この神様は高天原から船で降りてきたので、「船の神様」「海上交通の神様」とも言われています。

二つめは、水神や船に関する祭神三柱(水波女命(みずはめのみこと)、高お神(たかおかみ)、闇お神(やみおかみ))です。水波女命は水の神様、高お神(たかおかみ)は止雨(晴天)の神様、闇お神(やみおかみ)は祈雨の神様です。これは、807年、秋篠朝臣安人(あきしのあそんやすひと)が北陸道観察使として岩船の地にやってきて石船神社を建立して貴船大明神(きふねだいみょうじん)とすることにした時、これらの三柱の神様も一緒に祀(まつ)ったと伝えられています。

石船神社は、最初は物部氏が自分たちの祖神をお祀りしたことからつくられたのでしょうが、岩船の人々の生活が昔から水や船にかかわっていたため、神社の主神も海や水にかかわるものに変わってきました。そして、今では、岩船の人々の生活も多様になったため、氏神(うじがみ)信仰もさらに多様になってきました。

現在、10月19日の昼、祭礼巡行の途中でお御輿の安息場所である「第二御旅(浜のご旅所)」で行われる神事では、海上安全、大漁満足(だいりょうまんぞく)、商売繁盛(しょうばいはんじょう)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)などが祈願(きがん)されます。

お船様信仰

岸見寺町屋台「お船様」御神輿横新町「御神馬」

お祭りと言えばふつう、ご神霊がお神輿に移され、祭礼巡行の中心となります。しかし、岩船大祭は、他の祭りと少し違っています。それは、お神輿ではなくお船様が祭礼巡行の先頭となっているところです。

このような祭礼巡行が行われるところは、珍しいと思われます。お船様に遷(うつ)る神様とお御輿に乗る神様は、同じでしょうか。

日本書紀によると、曉速日命が天より降りるときに用いる乗り物が「天磐船(天磐樟船)」と言われるものです。これは、神の世界と人間の世界を往来するときに用いられたものです。それは、「くすの木で作った岩のように丈夫な船」という意味なのだそうです。その船に乗って饒速日命が天からどの地に降りたのかは、日本書紀には書いてありません。古代の人々は、山に神が宿ると信じていました。石船神社のある明神山は海岸部にあり、しかも陵(みさぎ)のような円い巨大なまんじゅうのような形をしています。古代の人々が神様が降りてくる聖地だと考えるのに、まさにふさわしい場所だったと思われます。また、人々は、神霊の世界が海の彼方にあって、その船に乗ればその岸に到着できると考えていたようです。

石船神社には、昔から神様が神様の世界から人の世界に降りてきたときのための船として、「明神丸」が祀ってあります。これがお船様で、石船神社の宝船となっています。この近郊では、桃崎浜の荒川神社と瀬波浜町屋台に、お船様が残っています。これも、船魂信仰の表現の一つと思われますが、石船神社のお船様のようにご神霊がお移りになったというものではなく、飾りものという意味合いだけのものです。

例祭とは、1年に一度神様が御神輿におうつりになり町をまわることを言うわけですが、人々の側からみると、1年に一度、神様を自分たちの住んでいる地区にお招きする行事と言っていいでしょう。

これによって、人間が神様をより身近なものに感じ、神と人間との一体感をつくろうというものです。石船神社のお船様は、おしゃぎりのない時代から、岩船大祭でご神霊がお遷りになる乗り物として使われ、祭礼巡行の先頭となってきました。船にも神様を宿らせて、船のお守りにしたわけです。お船様を乗せるのは、岸見寺町のおしゃぎりです。10月15日夜、町内の中で、「当宿」(とうやど)と言われるその年の当番の家にお船様が石船神社から下がってきます。そして、お船様の掃除や飾り付けをして、19日の朝、石船神社へ御霊を迎えに上っていくのです。神社では、「遷霊式」(せんれいしき)と言われる御霊遷(みたまうつ)しの神事が行われると、「御幣」(ごへい)をお船様に乗せます。

お船様にお遷りになる神様は、饒速日命、水波女命、高零神、闇零神の4柱の神様です。しかし、江戸時代になってお神輿が神社に奉納されると、そのお神輿にご神霊をお移しになるようになりました。だから、お船様が昔のように19日の朝神社に上ってきたときは、「神様、どうぞ町をご覧になってきてください」というような意味の祝詞(のりと)を宮司さんがとなえるそうですが、今のお船様には神様がお移りになってはいません。今でも昔の名残から、お船様がお神輿より先になっているわけです。

また、たくさんの生きた馬がご神馬として祭礼巡行に参加していた頃、町の安全上ご神馬をお神輿とともに巡行の先頭に移動できなかったというのも、お船様が先頭のままになった理由の一つとなっているようです。しかし、岩船の人々の深い船への深い信仰から、「お船様には神様が乗っている」と信じている人が多いのです。 

祭礼の期日

神社本殿へ向かう先太鼓

岩船大祭は、祭神が岩船の地にお着きになった日として、陰暦(いんれき)(月の満ち欠けをもとに作った暦)の9月19日を祭礼日としてきました。これは、冬に向かって海が荒れる頃でもあります。海で仕事をしていた岩船の人々の、一年の感謝の気持ちと「遭難を防ぎたい」と願いが現れたものでしょう。

1872年(明治5年)に、太陽暦が採用された後も、祭礼は9月19日に行われました。時期としては、今より約1ヵ月早かったわけです。秋の収穫の時期にも早すぎることもあって、岩船大祭を行うのには不都合なことが多かったようです。

そんな中で、1878年(明治11年)9月19日に明治天皇が新発田へご巡行になることになり、祭りと重なるので1ヶ月遅らせて、祭礼を10月19日に行いました。これ以後、祭礼は昔とほぼ同じ時季となる10月19日に行われるようになったと言われております。

おしゃぎり小袖の由来

現在、上大町以外のしゃぎりに乗る子どもの衣装には、女の子が着る着物地が使われています。岸見寺町のしゃぎりに乗る子どもの衣装は、振り袖を着ます。なぜ、女の着物を着るようになったのでしょうか。

平安時代ころから神様を喜ばせお慰みするものとして、田楽(でんがく)が発たちしてきますが、その田楽で踊って歩く「ねりもの」の衣装と、先太鼓やおしゃぎりの乗り子の衣装もたいへん似ています。このへんとも、つながりがあるようです。

また、青森ねぶた祭りで、ねぶたの前に踊って歩く「はねと」の衣装と、岩船大祭での先太鼓やおしゃぎりの乗り子の衣装がたいへん似ています。これは、北からの祭り文化が伝わってきて根付いたと言えます。

逆に、おしゃぎりは、西(京都)からの祭り文化が伝わって根付いたものだと言えます。このように、岩船大祭では、北と西の両方の祭り文化が合わさった祭りであると言えます。

祭りが豪華になってくると、祭りの衣装も豪華になってきます。江戸時代が過ぎて殿様の時代が終わると、裃もおしゃぎりの乗り子の衣装に取り入れられるようになりました。