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瀬波大祭の由来と見どころ

記事ID:0034746 更新日:2018年4月1日更新 印刷ページ表示

古い歴史のある西奈弥神社

浜町木遣り

村上の人たちが、よく言う言葉に、次のような言葉があります。「夏越様(なつこしさま)と村上祭りが済めば、盆となる。盆が終われば、じき瀬波祭り 瀬波が終わって岩船祭りが終われば、あとは正月。」盆・祭り・正月とは、1年の後半の行事を言い表した言葉です。この言葉には、季節のうつろい、年中行事の移行を表現したものといえるでしょう。

西奈彌神社の大祭は、9月4日に行なわれます。神輿(みこし)1基と屋台5台が、瀬波の町を華やかに巡行します。

平安時代の法典に『延喜式』(927年)という本があり、その本の中に磐舟郡(今の村上市・岩船郡)の神社の名が載った巻があります。

磐舟郡には、石船、蒲原、西奈彌、荒川、多岐、漆山、桃川、湊と8つの神社の名前が書かれています。このことから西奈弥神社は、約1200年以上の歴史を持つ、由緒のあるお宮ということになります。

祭神と伝承

西奈彌羽黒神社西奈弥神社の祭神は、保食神(うけもちのかみ)と呼ばれています。字が表わす通り、食物をつかさどる神様です。

瀬波の地名には、どのような由来があるのでしょうか。昔、神様が、越前(今の福井県)から、船で家来をつれて、瀬波の沖にやってきました。その時に、背中のほうから、風が吹きつけてきました。船は、その風と波に乗って、瀬波の浜に着くことができました。

神様は、「よき背の波かな」と申されたとか。そこから、セナミという地名が生まれたそうです。神様にしたがってきた家来は、この瀬波の土地に住むことになりました。
伊与部、磯部、小島(嶋)、小武、吉田の先祖にあたるそうです。

瀬波小学校の校歌に、「気比の宮居の千木高く瀬波の郡(こおり)と呼ばわりし」と歌われています。
西奈弥神社は、明治の初めまでは、気比(けひ)神社と呼ばれていました。このお宮は、福井県敦賀港にある気比神社との関係があると考えられます。敦賀の気比神社も西奈弥神社と同じ祭神をまつり、お祭りも9月4日に行われています。

祭りと子どもたち

横笛を練習する中学生

祭りが近づくと夏休み8月の後半から、子どもたちは、鉦(かね)、太鼓(たいこ)、囃子(はやし)の練習をします。小学校の5・6年生が主体で、太鼓は5年生、鉦は6年生が担当します。

はじめは、緩やかな練習も、新学期が始まり屋台が組み立てられるようになると、練習も熱が帯びてきます。祭りの当日は、朝早くから長袖の着物を着て、たすき・鉢巻で屋台に乗り込みます。元気な、「瀬波っ子」です。

また、中町の道路の両脇に露店が立ち並びます。屋台に乗らない子どもたちは、露店を楽しみにしています。夜店の買い物や祭りの見物で、夜遅くまでにぎわいは続きます。

神輿・屋台の巡行

神輿

9月4日の祭り当日、各自の町内を引き回した後、9時頃までに西奈弥神社前に浜町、中町、新田町、上町、学校町の順に集合します。

10時頃、神事を終えた神輿が、氏子にかつがれ、神社を出発すると、追って屋台も動き出します。

見どころ

浜町の坂におしゃぎり5台が集結

引き廻しは、夜まで続きます。木遣り
露店のテントに触れないようにして、浜町の坂の下に集まります。

ここから、盆唄(ぼんうた)にかえて、木遣り唄(きやりうた)が歌われます。木遣り唄の最高潮にたちしたところで、太鼓の乱打により、浜町の坂を一気に駆け上がるのです。瀬波祭りのクライマックスの場面です。

瀬波小学校の前の道路には、昔、戦時中まであった八丁松原(はっちょうまつばら)という松並木がありました。祭りの夜は、村上からの見物客が、涼しい夜風を受けて、村上まで歩いて帰ったそうです。その人々の歌声が、晩夏の夜の風物詩だったのです。瀬波祭りが終わると、長く暑かった夏も終わりを告げたのでしょうね。