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姉妹都市交流(鯖江市)

記事ID:0036095 更新日:2021年10月26日更新 印刷ページ表示

姉妹都市鯖江市との議会交流

村上市と福井県鯖江市の関係は、歴史的に密接な関係にある村上市と鯖江市が、昭和56年3月12日に姉妹都市締結をしたことに始まります。

その後、平成19年11月に合併前の当時の村上市長から鯖江市長に対して、合併後の姉妹都市提携の継続について打診し、これに対して鯖江市長からは、合併後も引続き姉妹都市として関係を継続する旨の回答をいただき現在に至っています。

この間、議会では隔年ごとに双方の議会を訪問し交流を続けています。

今後も両市および両市議会の親善友好のきずなを深め、両市の発展を期するために交流事業に取り組むこととしています。

姉妹都市の締結

昭和56年3月12日に姉妹都市の締結について次のとおり議会に提案され、同日原案可決され、その後鯖江市と村上市は姉妹都市として今日まで交流を進めています。


村上市と福井県鯖江市は、歴史的に密接な関係にあることを機縁として、親善友好のきずなを深め、もって両市の発展を期するため、姉妹都市の締結する。

昭和56年3月12日

新潟県村上市

鯖江藩の歴史

鯖江藩は、越前国のほぼ中央に位置し、北陸道に面した浄土真宗誠照寺(じょうしょうじ)の門前町にありましたが、家数十数軒の「間の宿」茶屋町に過ぎませんでした。享保5年(1720年)間部詮言(まなべあきとき)が越後村上から5万石で入封し、鯖江藩が設立してはじめてのまちづくりが進められました。

鯖江藩初代詮言の兄詮房(あきふさ)は、将軍家宣(いえのぶ)・家継(いえつぐ)の2代に仕えた御用人であり、綱豊(家宣)が甲府時代に小姓として召し出され、将軍継嗣(けいし)として江戸城西ノ丸に入ると幕臣となり、綱豊が6代将軍になると老中格となり、宝永7年(1710年)には高崎5万石に封ぜられました。

その後、享保5年(1720年)越後村上で逝去しました。

詮房の死後、実弟の詮言(あきとき)が家督を継ぎ、同時に鯖江藩5万石に所替えを命ぜられました。藩主は初代詮言の後、詮方(あきみち)、詮実(あきざね)、詮道(あきみち)など9代150年にわたり在封した。詮言は初代藩主として家臣団の移転、領国支配の確立、陣屋町形成などに取り組んだが、城下の建設半ばで国元鯖江の地を踏むことなく、享保9年(1724年)江戸芝三田で亡くなりました。

浄念寺と萬慶寺

浄念寺(じょうねんじ)

浄念寺は、代々村上藩主である本多家、榊原家、間部家の菩提寺となった浄土宗の寺院です。元禄2年には松尾芭蕉と曽良が奥の細道行脚で村上を訪れ、藩主の菩提寺で珂硯上人ゆかりの寺であったこともあり、浄念寺を参拝しています。現在の浄念寺本堂は文化15年(1818年)に建てられたもので、地方では珍しい大型土蔵寺院建築で内部の吹き抜けや正面唐破風の彫刻など見所の多い建物で、平成3年に国指定重要文化財に指定されています。

本堂の建設にあたっては、前藩主鯖江間部家と内藤家の寄進によるものが大きく江戸藩邸で両家臣が打ち合わせした事が記録に残っていて当時の江戸城下の建築技術を取り入れたと考えられています。浄念寺境内には6代将軍家宣と7代家継に仕え、享保2年から村上藩主となった間部詮房の御霊堂があります。

萬慶寺(ばんけいじ)

萬慶寺は、曹洞宗大本山永平寺の直末寺で、享保5年(1720年)に初代鯖江藩主間部詮言(まなべあきとき)が越後村上から入封したのに伴い、村上の常福寺の僧陽光が西家中(現在の桜町)に「万松庵(ばんしょうあん)」を建設しました。その後、享保10年(1725)に2代藩主間部詮方(まなべあきみち)(1709年から1785年まで)によって現在地に移され、現寺号に改めたもので、以後間部家の菩提寺とされました。

階段を登ると、嘉永2年(1849年)に建てられた鯖江市指定文化財に指定されている「山門」があります。鯖江では珍しい2階建ての楼門形式で、幅3.6m、奥行き2.4mもある立派な門です。大きさもですが、建築物としても価値があり、2階には高欄付きの縁があり、柱はすべて円柱のものが使用されています。また、軒は1軒半繁垂木で、入母屋造桟瓦葦の屋根となっています。

山門をくぐると本堂があります。この本堂の天井には、7代目藩主である間部詮勝(まなべあきかつ)が描いた、有名な天井墨絵「風神」「龍神」「雷神」の3枚があり、山門同様、鯖江市指定文化財に指定されている墨絵は、力強い迫力のある絵です。