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出櫓跡
出櫓跡(でやぐらあと)
概要
出櫓は本丸天守への進攻を阻止する村上城最大、かつ、最強の防衛施設です。出櫓の形状については、正確な記録が無く詳細は不明ですが、古絵図には二層櫓のように描かれており、求められる機能からも2階建てだった可能性が高いです。
現在も残っている出櫓台(石垣部分)は、築城初期から増築や改修が行われてきました。特に播磨姫路から移り、村上藩主となった松平直矩(まつだいら なおのり)の頃に改修され、現在のものに近い姿となったと考えられます。その様子は、享保2年(1717)の間部(まなべ)家絵図から読み取れます。
享保2年間部(まなべ)家絵図
(新発田市立歴史図書館蔵)
【拡大】出櫓跡
出櫓台石垣修復について
出櫓台石垣は、過去に数回、崩落・崩壊が発生してきました。江戸時代の詳細は不明ですが、明治45年の絵葉書には、石垣の一部が崩落した写真が写っています。さらに、昭和46年には、豪雨によってその一部が崩壊し、出櫓台石垣はその都度修復されてきましたが、近年、更なる崩壊の兆候が見られたため、平成15~27年(2003~2015)に石垣修復工事が行われました。
昭和46年の豪雨による崩壊(出櫓台北面)
同年の修復工事
出櫓台の石垣の修復(解体・積み直し)には、伝統的技法を導入しました。積み直しには大正期に撮影された写真や古文書などを参考としました。
また、修復の際に必要となった補足石材については、村上城跡元来の石垣の石材が入手不可能であったため、質感が一番近い山形県最上町産の「富沢石(とみざわいし)」を採用しました。最終的には約7割の古材を交換し、積み直しの総面積は約210平米となりました。
修復前
修復中
修復後
発掘調査でわかったこと
出櫓台では石垣修復と並行した発掘調査も行われました。出櫓台上面の出櫓跡を中心に役250平米の範囲で実施しました。
出櫓と付随する多門櫓に係る石列や地山岩盤に刻んだ排水溝(雨落とし溝)と思われるものが検出されています。更に出櫓台後方には、岩盤を削平し小さな三段のテラス状の曲輪(くるわ)が存在したことが推測されています。このほかに、岩盤をくり抜いた大小ピット(小さい穴状の遺構)が7基検出されています。
遺物については、17世紀初頭以降のものと思われる土器を含めた陶磁器の破片、和釘などが数十点、寛永通宝などの古銭が数点検出されました。
出櫓台発掘調査の様子(平成21年)
出櫓台発掘調査の図面と写真